2016年5月23日月曜日

システマ練習会開催告知

今月27日金曜日に、高知市城西公園にて練習会を開きます。開始時間は10時半、終了は午後2時半を予定しています。宜しければ覗いていってみて下さい。

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2016年5月17日火曜日

高知のシステマ遍路紀行

 システマと出会って早六年目を迎えて、ちょうどよい頃だとも思い至り、先月の練習会をインターバルとして書き起こす、僕のシステマ観を綴ってみました。

 世界には多くの流派があります。武術に限った話をしているのではありません。茶道や華道もそうでしょう。絵画の世界も、映像美術の世界もそうです。宗教も、キリスト教ならカトリックやプロテスタント、ルーテルやらいろいろあります。イスラムなら、シーアにスンニはメジャーですが、十二イマームなんていう派もあります(イスラムなのにクリスマスのお祝いをする派まで存在します)。宇宙論の世界もそうでしょう。10次元、11次元をとなえる人々に続いて、21次元なんて主張する人も出てきてます。
 システマの名を冠した流派が多い事に加え、一般的な意味におけるマーシャルアーツまで含めると武術界は数多の流派を擁していますから、僕は武術初心者の時分にはよくばって、言い換えればバカはバカなりにバカになりきらずに、師匠の真意を理解せずにあれやこれやと手を出したのを今でも覚えています。それがシステマをよく知る一助に、結果としてなった訳ですが、システマは、便宜的にシステマ・リャブコと明記しますが、ミハイル・リャブコ師匠とウラディミア・ヴァシリエフ師匠が世界で初めて命名されたのであって、ロシア語でシステマとは英語での「ザ・システム」に相当するに他なりませんが、それでも武術界に措いては御両者が世界初なはずです。他のシステマは、有名所ではカドチニコフ将軍が興されたものがあります。其れ以外に様々なシステマと称する武術が存在しますが、どうやらまともなものの多くは源流がコサック等のユーラシア広域に渡る、プレモダンの時代に措いては近代的な継承システムや教育システムが整備されていなかった現地住民の間で伝わっていたものを近代的に体系化し直したもののようです。
 さて、僕なんかは一先ずリャブコ先生の系譜に付いて行こうと考えたのですが、他に頼る当もなし、然してすんなりとシステマ・リャブコを受け入れたわけではありませんでした。時を同じくして、僕は読書人としては些か遅れ気味ではあるものの、システマと同じように格闘の末、ついにとある読書人の系譜に触れ、トートロジーの概念等を体感しシステム思考の初歩を会得していました。
 トートロジーとは同語反復のことです。例えば、むちゃくちゃ強引な喩えで言えば、神は居る!!という言明に対して、なんで居るのかと問うてみても、居るから居るんだよ!!と、返答が在るだけのことです。今の国会答弁を聞いていれば、これがよく判ります。やたら修飾語句が多いのですが、それらを剥ぎとってやれば主張は単純で、答弁の内実はこれを繰り返しています。お為ごかしで、やたら抽象的表現が得意な教条主義なイデオロギーの主張にも通底しています。
 当時のシステマの教本には難しいことは一切書かれていなかったように、印象としては残っています。ですからドリルの内容はあっという間に全てやり終えてしまいました。地方に措いては、誰も一対一で間違いを指摘してくれませんから、こんなのでいいんだろうかとずっとモヤモヤとした想いが晴れませんでした。前田さんとタッグを組んでからも、暫くこれは続きます。途中、中国武術を齧ってみたりもしました。つまり、僕のマインドとしては、やるからにはベストな物を会得したいのだが、そもそも今やっていることに意味はあるのか、基、武術なんか僕の人生に何の意味があるのか?様々な雑念が湧いてきて、これらの内省的セルフトークは個人的動機に迄批判を突きつけてきました。
 幸か不幸か、個人的なことですが、当時の僕は失うものが無くなっていましたので、逆に人生をよく考えて再出発する機会に好むと好まざると向き合わないと正直まずかったのですが、リデル・ハートに代表されるイギリスの戦略思想に影響されていたばかりということもあってか、実際の行動の前に先ずよく情報を吟味する事を心得ていましたから、ともかく今はシステマを続けるんだという覚悟で鍛錬に励みました。
 何時頃からかは明確に覚えていませんが、ついに僕の内的プリンシプルにシステマ・リャブコが宿り、あらゆる他の武術の系譜への考察と批判が出来るように成りました。ここで、前述のトートロジーの概念が役立つのです。
 科学や哲学は、宇宙や我々と言う実体とその実体の本質を論じようとし、解き明かそうとしてきました。それでも、どうにもわからない、未だ更なる本質へとたどり着けていない語りの系譜、知の系譜があります。その系譜の端っこの部分、あるいはシステム思考の各端点、根っこの部分と言い換えてもいいかも知れませんが、それがトートロジーです。
 言い方は悪いですが、ぶっちゃけるとシステマは水先案内人が居ないと、よほどの動機無しには直ぐにリタイアしてしまうほど、間口は広いけど時分の頭で考え続けないと解き明かせない知の体系であり、深い考察に基づくシステマのシステムへの理解がない人には意味不明な御高説を聞かされているだけだと思います。そこでは幾つものトートロジーに出会うでしょうし、情動的には、慢心や妄想、攻撃的意思や鍛錬への忌避感等とも絶対にめぐりあいます。
 瞑想修行をされる方ならばご存知でしょうが、瞑想修行では行ってはならないラインが存在します。仏教界では魔境と称されます。瞑想に成功すればめちゃくちゃ抽象思考能力がアップしますが、それにはこの魔境をクリアしないといけません。どこからが魔境への入り口なのかは手探りで進んでいくしか無いのですが、万が一(ぶっちゃけかなりの高確率で魔境を観るとは思いますが・・・まぁ僕もしょっちゅう観るんですけどね)魔境に分け入った場合、そこでは、前述の情動に取り憑かれそうに成ります。あれら以外に、快楽や恍惚、無限とも思える万能感や超越性との一体感といったものもありますから、これらに溺れた行者は二度とまともな人間性には戻れません。ではどうすればいいか、他に手はないのか?あります。それらの情動を相対化すればいいのです。それには抽象思考能力を活かします。話が長くなるのでここで切りますが、要はシステマの上達の仕方にそっくりですね、と言いたいのです。

 正直いまの様な知見や精神性の獲得に至るとは思ってもみませんでした。こまかな技術論は、本日はしません。ぶっちゃけしても意味はないでしょう。あの通り、述べましたように、システマは実践と体感と考察の継続で体得する武術であり、一種の学問であり、完全にある種の修行の場です。たしかなメンタルタフネスと知的能力の向上を望める不思議な方法です。
 比較論で言えば、僕は以前より、明らかに攻撃的ではなく説得による社会へのコミットメントを積極的に試みるように成り、執着から離れて恐怖心を手懐けるように成り、自立心の向上と同時に何かに依存しないと生きていけないことを一層認めるように成り、快楽的刺激的人生よりも知的刺激に満ちた心の平穏を求める人生に価値を抱くように成りました。実を言うと、システマに求めるものも、期待するものまで変わってしまっています。以前なら、師匠のかっこいい剣捌きや強烈な打撃に興味がありましたが、興味なさすぎなのは困りものですが、そんなものよりももっと抽象的で実在を離れた未来の僕の陶冶されたマインドやヴィジョンを得ることに希望を持っています。
 ところで僕は読書人の末席に居ると記しましたが、読書も、いや多くの人々にとって読書は本当の処、人生に措いて相当高位の優先度を与えられるべき掛け替えのない行為なのです、一般論としてはぶっちゃけシステマ以上だと思いますが。トートロジーを判らないというのは、彼彼女はもうイリテラシーど真ん中に居ることを晒しているも同然です。これからは人生150年が当たり前に成るんだそうですが、それでも浮世の出来事は光陰矢のごとしです。我々はどの情報に触れるのかを人生の早いうちに覚悟しないと、後悔と相対的力の論理に隷属する人生が待ち受けています。
 たった150年では、触れられる情報なんてごく僅かだと肝に銘じないといけません。ぶっちゃけ、近代以降は人生に目的論を持つべきなのですが、アジアではどうにも縁起的世界観にどっぷり浸かりすぎて危機感のない人が目立ちます。まともな知の系譜は、過去後の遺産の積み重ねで構成されます。僕が属する系譜の大河は、オントロジー、古代ギリシアの知識人達が格闘した人の心にまで遡るシステムです。現代科学は、結局人の心も情報の海に浮かぶ小島だと理解させてくれましたが、やはりここでもオントロジーへの遡及は繰り返されました。我々は普遍とは何かを理解しないといけません。特殊の逆を行くのです。古代ギリシア人は、普遍とは、認識上の真でありモラルの上での善であり、審美上の美であるものだけが普遍性の系譜に連なると理解していました。今に至るも、だから我々の知の情報は古典の上に成り立つのです。特殊化の果てには、誰からも見放されたトートロジーが横たわるだけ、つまり緩やかな死が待っているだけです。
 無論ここまでの話はシステマに関係しています。僕は何故システマ・リャブコを続けているのか、続けられるのかについて。それには、僕の個人的動機のシステムについて、少しばかりお話をしないといけないでしょう。
 僕は30年位の人生で、いい思い出も出来ましたが、相当ひどい目にもあってきました。多くの方々と同じく、世間にもまれ、疎外され、それでも生き抜くために様々なコミットメントの術を身に着けてきました。そう、みなさんと同じく幼児の頃からずっとです。しかし世の中そんな程度で渡りきれるほど甘くはない。知る人ぞ知る考えですが、世の中とはお金と騙しで出来ているのです(これに文句がある方は、副島隆彦先生に論戦を挑んで下さい。確実に精神的に消し炭にされます。)。僕はそれを知らなかったがためにひどい騙され方もしましたが、世間はそんなことお構いなしです。始めは憤慨しましたが、古今東西これがごく自然な秩序なのだと思い知りました。表向きうまくいっている人々を尻目に、僕は自衛と良き人生の開拓を旨に誓って、読書人階級へのコミットメントを始めると同時に、システマに出会い、護身を考えるように成ったわけです。今よりももっと若かりし、青臭かった頃、二十歳ぐらいの事です。
 読書人の世界への水先案内人選びも奏功して、結果としてシステマは僕の人生に多大な恩恵をもたらしてくれました、勿論読書習慣からの知の恩恵もセットで、です。綺麗事抜きに言うと、これからは国家機能がめちゃくちゃ強化されますし、ロマン主義的反動でTPPなどの帝国主義的広域保護主義をはねのけるなんて出来ませんから、貧乏な人はもっと貧乏になるし、景気も絶対に回復しませんが、様々な基金は元本割れをさせられて、いいですか、させられて、です、皆さんのお金は権力者に持って行かれます。僕はこういうことを知っている、いや基、信じているからこそ知の獲得とシステマにより真剣になれるのです。動機が強化されるということです。さて、いよいよトートロジーやシステム思考や知の系譜のお話、読書の習慣とシステマの関係を総括しましょう。
 それはシステマをやる意味、意義についての僕の見解です。ぶっちゃけるとやってもいいし、やらなくてもいい、どっちも正しくないし、間違ってもいない、と先ず言いたい。この論の一番最初のところで話しました、いろいろな分野の数多の派閥についての事と事の真相は同じです。どっちでもいい、どれでもいい。システマへの感想に、世界平和の希望を見出される方が居ます。それはそれで結構な話ですが、僕はそんなに簡単じゃないよ、世界平和は、と思ってしまいます。例えば、じゃぁあなたはアナロジーとして理解される歴史の反復現象から、どうやったら戦争や差別をなくすつもりなのか青写真を出してよ、と僕ならば問い詰めます。アメリカのバイブル・ベルトでは、ジーザスが聖なる軍団を率いて天界から再臨されて、地上を天界と同じ秩序にする、すなわち異教徒を殲滅してくださると信じている方がいっぱいいるそうです。さらに南部へといけば、本当にUFOの飛来を信じている人もいるそうです。イスラームでは、神の代理人たるカリフを頂点にした帝国を全世界に押し広げようと真剣に取り組んでいる方々が居ます。日本では、古事記を書いたのは中国大陸の人ではないと信じたい人が多く居ることでしょう。子供達は夜のトイレにはお化けが居ると信じていて、お化けを相対化してしまった両親を悩ませています。判りますか?知ってる知らないの問題じゃないんです、信じるか信じないかの問題なのです。
 システマは知らなかった体の動かし方、使い方を教えてくれるし、他の武術にはないものを提供してくれます。体感してご納得いただくしか方法はないですが、僕が調べた限りでは最高の護身術であり、決してまがい物ではありません。ですが、習得には時間がかかるでしょう。また、時間を割く以上は多少の覚悟も必要でしょう。もしかしたらまったく人生には不要だったと、後々意見が変わってしまうことは大いにありえますから。
 僕の頭の中のリアリティーは絶対に誰のものとも一致しません。僕の個人的動機だって、もしかしたらそのうち相対化されるかも知れない。赤の他人からすれば、僕の価値観に基づく人生の優先順位表は採るに足らないかも知れない。いつだってそうありえるのですが、僕の知的作業では、システマ・リャブコが本物の人生を歩ませてくれる確かなものの一つであり、取り入れるべき情報だと認識した、包括するとこう言いたいわけです。
 ソクラテスは言葉を徹底的に吟味して使うように弟子達を諭しました。そんなこんな、抽象的すぎて肌身感覚の日常から離れすぎた彼の主張は、敵対者の術策と、何より無教養である意味無垢な一般市民からの支持を得るどころか、旧約聖書の羊の生贄のように、彼らはソクラテスに服毒を強要してしまいました。きっとギリシアのアゴラから消え去ったダイアモンドの存在に気づきもしなかったでしょう。何故ならば、それの存在を知らないのはおろか、信じていないから平気で歴史上の偉人を葬り去ることが出来たのです。
 システマが何なのかは体感を通して、徹底的に吟味していただくより他ありません。派手な見世物には成り得ませんし、メダルとも無縁ですから、僕が思うに、精神的継承こそシステマのアキレス腱なのです。

 去年、ドイツ人の青年お遍路さん、レオナルドに遭った話は以前しました。欧米の世界ではああしてバックパッカーをやるのが一種の伝統にまで昇華しています。彼らの文化は、文化を支える歴史を観れば判る通り、石造りのレンガ積み構造になっています。その本質は言葉にあります。どこまでも、古典に遡れば一筋の論理で貫かれる世界観です。人は成人に達すると、特殊な技術無しにはリアリティーを相対的なものとして捉える癖から抜けられなく成ります。それを頑強にしているものの正体こそ言葉なのです。この言葉の呪縛から逃れる方法の一つに、違う価値観に触れる、ぶっちゃけると全く異なった価値観を持つ文化圏に己のアイデンティティーやらエートスを投げいれるやり方があります。するとその時の体感が、言葉で出来たシステムを頭ひとつ抜けさせてくれる、悟りを興させてくれることが往々にしてあるようです。肌身的にそれを、欧米の世界では知られているのでしょう。
 対して東洋人、とくに日本人は言葉をいい加減に使う(狭い国土で米を回送する歴史に支えられている文化と異文化に陵辱された経験の少なさの歴史に支えられた文化)ことが功を奏したのか、こういうことをしなくとも鋭い感性を発揮できていますから、ミッションの世界に生きることには違和感を感じるのは当然なのです。
 感性を情動と、いまだ勘違いする人が居ますが、それは間違いです。感性とは、言葉よりも抽象的な知的能動性です。レオは、彼に聞くと、ファッキンな神なんか信じてないぜ的なことをいう19歳の青年でしたが(笑)、それでも色濃くコルプスクリスティアヌグのエートスを引き継ぐローマ人の末裔だと僕は感じました。
 僕の時間感覚は円環です。確かに、僕はレオには絶対的時間尺度を持ったリアリティーをあの時の会話の端々から感じました。キリスト教化する以前のギリシア人たちも、時間間隔は円環だったそうです。僕の感性の計算では、システマとの付き合いは僕の人生を彩り豊かなものにしてくれるとはじき出しました。どうせ最期は皆死にます。自然とも同一視出来ない人間は、まさにもののあわれ。支配も所詮は幻想。今、現代は大量生産大量消費のパラダイムの転換も迫られています。平たく言うと、量より質が求められる。だからこそ、何を人生のパートナーとするべきかを考察するべき時代が再来したのです。
 さて、そういう意味ではシステマはおすすめです。なんといっても己を知ることが出来る確かな方法の一つですから。あとは皆さん次第。何を信じ、何を成して消えてゆくのかは、皆さん次第です。
 本質を考える時代の到来です!!

2016年5月12日木曜日

7月練習会告知

こんにちは
前管理人の前田です。

遅くなりましたが
前回の4月の練習会、お疲れさまでした。
私が東京で大西チーフやザイコフスキーに教えてもらった事柄
を時間いっぱい全部詰め込みました。

4割くらい伝わればいいと思い駆け足でやりましたが
結構即興でみなさん出来ていたので
おお!すごいなと感心してました。

ピンと来ない内容もあったと思いますが
いずれピンと来る時が来ると思います。

7月にまた高知に帰郷をします。
その際に練習を行います。

練習日時と場所は
7月24日(日)午後1時
場所 種崎海水浴場
です。
終わりの時間は決めてないのですが。
5時の予定です。
用事の方はどうぞ途中で抜けてください。

ご質問等ありましたら私までご連絡ください。
odennotamago3@gmail.com 




実は、、
まだ未定ではありますが。
高知の方にとってもっと素晴らしいイベントが行われるかもしれません。

お楽しみに!




体験したい方 システマ大阪
http://www.systemaosaka.jp/new/
システマ大阪 本部道場開設!!


北川インストラクターのブログ
http://systemablog.blog54.fc2.com/


高知の方は下元さんに気軽にご連絡ください。
下元アドレス(高知在住)
tomatomato19@gmail.com
前田アドレス(前サイト管理 東京在住)
odennotamago3@gmail.com