2016年7月26日火曜日

古来征戦幾人回!! 地獄を知ってまたひとつ眼を開かされたお話

 題の訳->「昔っから戦争は絶えず、その度に若者達は連れて行かれ、ほとんどは還って来なかった」
 システマでは「汝、己を知れ。」とよく言われます。僕もそうですが、若者って何時でもどこでも凄く短絡的で、でも純粋といえば純粋なんですが。思い知らないと、覚悟が決まってないと、あぁ、やられるな!!そう感じたので、今回は其れに関わるお話。

 管理人の前田さんが久々に帰って来られて、僕とマンツーマンで様々なエッセンスをおすそ分けしていただきました。
 しょっぱなの、膝立ちでふくらはぎから足先まで踏みつけられるワークが、今回最初で最後の、いの一番の教えであったと心底思いました。こいつの痛いのなんの!!ブリージングで忍ばされるのですが、頭が本当に真っ白になっていく・・・。これがすごいやつになると、ナガイカやボルチャカでぶっ叩かれまくる内容になるそうです。これは、所謂システマ式マッサージではなく(かもしれませんが)、エゴを出すためのワークなのだそうです。
 ははぁ、なるほど、と、無事にワークから生還して思いました。正直に言うと、途中何度も、恨んでやるぞ、コノヤロー・・・、もう勘弁して、などなど様々な、独立不羈や独立独歩とは相反する精神状態、情動が湧き上がってきた事を白状します。
 あくまで個人的感想の範疇に留めますが、僕はこのワークで普段自覚できていなかった様々な、よりよい人格や人生を得るためには不必要であり足を引っ張りかねない本質の匂い、感触を覚えたという確信が芽生えました。

 僕はまだ40年も生きていません。そんな僕でもいい加減、そろそろかなり気づいてきた、見えてきた人の一生についての一般的観測の回答を得て来た想いでいます。
 ところで、お経というものについて、最近この本質を掴む機会がありました。現今のお経はそのほとんどがただのマントラになっている、「バシ○ーラ!ラリホ○!ミナデ○ン!」と、小学生が大声で魔法ごっこ遊びをしているのと何らかわりません。本来のお教とは師匠から弟子へ、聖火リレーのようにその本質を脳汁バンバン出しまくって伝えていく積極的かつ率先的行いなのです。前開も書きましたが、ソクラテスもこのあたりを危惧して書記文化を忌避し口承文化継承を訴えたのです。だから毒殺されるんだよ・・・保険打っとけって。
┐(´д`)┌ヤレヤレ
 現代はデジタル書籍まで登場してコンテクスト情報は大氾濫しています。さっきの気づいてきたことというのは、知的コミットメントの能力差が社会を階層化させるという力学です。2chは30代や40代が中心層で、いまはli○eやtwi○terが主勢力として、感情だけを吐き出す媒体として人気を誇っています。僕は、かつて渋谷系と呼ばれた(カネになるからアキバ系は政府が押すんですが、軽犯罪の温床になると観てか渋谷系は撲滅されました。オイオイ。)層の特殊化したコミュニケーション媒体、ギャル語も、そんなものもあったなと覚えています。特殊化する言語やコミュニケーションツールは早晩死に絶えます。普遍性のあるツールのほうが必要なんですが、これがコンテクスト情報なのですが、さっきもいいましたがこれは叛乱していて、そもそも一般的に本を読むなんて行為は世の99%以上の人々にとってしんどくて仕方がない行為なので、これも見えてきた力学なのですが、まぁ何時になっても流行らないものなのです。

 世の中は一部のリーダーが、次世代の産業やあらゆる業界の新しいパラダイムの種を齎して、そこに人々が群がってでかい既得権益や保守的文化を形成するものだと僕は信じます。だから、停滞感のある世の中で一人ひとりにリーダーシップを求めるのは、確かに酷なものなのだと僕は思います。さっきも言った、99%には学校の先生だって漏れ無く入っていて、そこにまともな読書人なんてほぼいません。クズ本読んで威張って子供達をいじめまくってます。漢籍の心得なしに森鴎外読めるわけねーだろ・・・ボクモイジメラレタ!
(・A・)イクナイ!!
 前述したワークでは、今まで述べたことを簡単に包括的にした内実を凄まじく思い知らされたのです。
 僕は個人的人生観へのキャッチアップと実体的なそれの構築のためのリーダーシップを、決して諦めないと誓っています。異論はあるでしょうが、15歳にもなれば人間は棺桶に入るまでずっと孤独に生きることは普遍的ファクトです。どっちにせよ、自由に、豊かに、満足する生き方をしたいならそういったマインドを持つべきでしょう。
 でも実際其れが出来る人はごくわずか。どれだけ誓っても、もしかしたら僕も敗れ去るかも知れない、その蓋然性は決して薄くはないはずです。
 幼稚園生から孤独な老人まで、皆徒手空拳でコミットメントの術を獲得していきます。だから、僕はもう二度と他人の現状にケチをつけたりはしないと個人的に誓っています。今日のいの一番のワークでは其のことに思いが至りました。
 システマもまた、主体性が問われるのです。間口は広いですが、ステップアップするには超えなくちゃいけない山が幾つもあるのでしょう。システマを舐めてたんじゃなくて、人生をまだナメてんなオレは!!
 心底、本当にそう思いました。知的に、精神的に、キャッチアップするのって、コミットメントするのって甘くない!!
 でもあの山の上に僕は巣作りをしたいものです(言葉を使い間違ったわけではありませんよ。低いところでの巣作りは、ヤバイ。)。



そういえば、公園にまだ眼の開いていない子猫が(捨てられていた?)いました。見知らぬご夫婦が結局拾ってくださってホッとした!!
( ;∀;) イイハナシダナー
僕は犬猫の味方、ニンゲンは嫌い。
そんでもえっちらおっちら、恒久平和の門を悶絶しながら開いてゆく。
拾ってくれてありがとう。



コミットメントにメソッドなんて無いよ。いい師匠を見つけることが、全てのコミットメント、人生のスタートだ!いやほんとにそう思うわ。ねぇ、見てる?



ミテル?
( ゚д゚)


おわり。 

2016年7月15日金曜日

目隠しナイフワークと普遍

 なんか小難しくしてけむにまいたかのようになるんで、考察でもレポートでもなく感想をちょこっと載せます。

 普遍、って言われてなんだかわかりますか、説明できますか?おいおい、もう講義かよ。
 昔のギリシア人達は普遍にたどり着く信念を心得ておりました。それは認識上の真、道徳上の善、そして審美上の美、これらを経て普遍であると言う信念です。
 認識するのに不可欠なのは言葉です。アリストテレスやプラトンの時代には、もう既に文字文化が根付いた、あるいは根づき始めていた頃です。彼らのお師匠様であるソクラテスは口承文化の破壊と知性の劣化に繋がるとして、この新しいメディアの登場にぶちギレ激おこプンプン丸でした(んなこといってるから毒杯呷ることになるんだよ・・・ロビー活動とか根回しって重要だよね。世の中一筋縄ではいかない。そういう意味でソクラテスはいつまでも若かった!!半分見習いたい、いやほんとに。)。ところが現代のツ○ッターに連なる呟きに拠る言葉の烈火どころか、肌身感覚的で実在的な目に見える華やかな人類の文化が開花していき、知的コミットメント能力に拠る社会の階層構造化に拍車をかける事と相成ります。

閑話休題

 ナイフワークについてですが、昨日やった目隠しナイフワークは刺激的で、非常に印象深い記憶として脳裏に焼き付いたがため、衝動的にこれについて感想を、せめて記したかったというわけです。
 金属製ダミーナイフに視覚のモーダルチャンネルを閉じさせて、何か感じるものを探っていくというものです。大阪や東京の道場、またはインストラクターのブログでよく聞く話でして、これ、この段階をクリアしないと進めない次の段階へのステップがあるそうなんです。
 きもちわるいのこそばゆいの、恐怖やテンションのワードで片付けていた情動と内省的感覚へのラベリングは昨日の段階ですら結構深化、精緻化して、これだ、いまだ!!ナイフが来るぞ!!!!というような片鱗を掴んだという手応えがあったと思いたい!思いたいだけです、錯覚かも。

 べつにですね、なんか真新しい物を身につけたとか言うんじゃないんです。子供の頃にはたしかにこういう感覚を覚えてたよな、というものを強烈に思い起こした、だから閉じていた感受性を復活させる作業なんじゃないのかなこれは、と幾ばくかの確信をもったといいたかっただけです。
 これは普遍的か、局所的か、はたまた特殊化か!!?そう問われれば回答するには徹底的ディベートが必要でしょうな。めんどうだからここではしないけど。というよりいつまでもしない。誰か勝手にやって。
 だから僕の勘で言うと、普遍だろうと、そう思います。特殊化の道を行くなら死に絶えるだけ。でも、国民国家の概念と資本主義の概念が多くの近代人の内的原則として根付いた今日でさえ、商品化と消費行動を半強制される社会でこうしてこの人づての実践と体感を受け継ぐ人々は跡を絶たない。
 平面上に記されたシンボルとして最も抽象的表現の砦を守った人に、HMSコクセターという幾何学者が居ます。平面幾何はオワコンとされていた時代の人ですから、根性ある人なんですよ。何十次元の世界の何十面立方体を平面幾何に落とし込むとどうなるか、とか言うことをずっと考えていた人です。
 彼だけじゃなく、彼の目指した世界だけでなく、世間には人の数だけすっごく抽象的な世界が在ります。コクセターはとっくに亡くなっていますが、彼の世界は消えてもその地平線をおがむことが出来るザイルは、山頂付近に繋がったままです。
 この目隠しナイフワークで観える世界が、システマをやる方々皆に同じに感じられているかというと、甚だ怪しい物が在りますが、お互いザイルパートナー同士、多分山の上からの絶景をおがめたことでしょう。
 抽象的な世界、言葉に未だならない、なりそうにない世界への挑戦は世界中の各分野で未だ続いています。然して僕はこのことを信じています。いずれ一般大衆にその時代の話し言葉で記述がなされ、歴史によって民主的に普遍化していくだろうと。

 議論っぽい?ぁー、ハイハイ、幼稚園の頃から理屈っぽいって言われなれてます!
(゚Д゚ )アナロジーデリカイシテ。メタファーモシニシーモイトシテツカッテナイカラムズカシクナイヨ。