2016年7月15日金曜日

目隠しナイフワークと普遍

 なんか小難しくしてけむにまいたかのようになるんで、考察でもレポートでもなく感想をちょこっと載せます。

 普遍、って言われてなんだかわかりますか、説明できますか?おいおい、もう講義かよ。
 昔のギリシア人達は普遍にたどり着く信念を心得ておりました。それは認識上の真、道徳上の善、そして審美上の美、これらを経て普遍であると言う信念です。
 認識するのに不可欠なのは言葉です。アリストテレスやプラトンの時代には、もう既に文字文化が根付いた、あるいは根づき始めていた頃です。彼らのお師匠様であるソクラテスは口承文化の破壊と知性の劣化に繋がるとして、この新しいメディアの登場にぶちギレ激おこプンプン丸でした(んなこといってるから毒杯呷ることになるんだよ・・・ロビー活動とか根回しって重要だよね。世の中一筋縄ではいかない。そういう意味でソクラテスはいつまでも若かった!!半分見習いたい、いやほんとに。)。ところが現代のツ○ッターに連なる呟きに拠る言葉の烈火どころか、肌身感覚的で実在的な目に見える華やかな人類の文化が開花していき、知的コミットメント能力に拠る社会の階層構造化に拍車をかける事と相成ります。

閑話休題

 ナイフワークについてですが、昨日やった目隠しナイフワークは刺激的で、非常に印象深い記憶として脳裏に焼き付いたがため、衝動的にこれについて感想を、せめて記したかったというわけです。
 金属製ダミーナイフに視覚のモーダルチャンネルを閉じさせて、何か感じるものを探っていくというものです。大阪や東京の道場、またはインストラクターのブログでよく聞く話でして、これ、この段階をクリアしないと進めない次の段階へのステップがあるそうなんです。
 きもちわるいのこそばゆいの、恐怖やテンションのワードで片付けていた情動と内省的感覚へのラベリングは昨日の段階ですら結構深化、精緻化して、これだ、いまだ!!ナイフが来るぞ!!!!というような片鱗を掴んだという手応えがあったと思いたい!思いたいだけです、錯覚かも。

 べつにですね、なんか真新しい物を身につけたとか言うんじゃないんです。子供の頃にはたしかにこういう感覚を覚えてたよな、というものを強烈に思い起こした、だから閉じていた感受性を復活させる作業なんじゃないのかなこれは、と幾ばくかの確信をもったといいたかっただけです。
 これは普遍的か、局所的か、はたまた特殊化か!!?そう問われれば回答するには徹底的ディベートが必要でしょうな。めんどうだからここではしないけど。というよりいつまでもしない。誰か勝手にやって。
 だから僕の勘で言うと、普遍だろうと、そう思います。特殊化の道を行くなら死に絶えるだけ。でも、国民国家の概念と資本主義の概念が多くの近代人の内的原則として根付いた今日でさえ、商品化と消費行動を半強制される社会でこうしてこの人づての実践と体感を受け継ぐ人々は跡を絶たない。
 平面上に記されたシンボルとして最も抽象的表現の砦を守った人に、HMSコクセターという幾何学者が居ます。平面幾何はオワコンとされていた時代の人ですから、根性ある人なんですよ。何十次元の世界の何十面立方体を平面幾何に落とし込むとどうなるか、とか言うことをずっと考えていた人です。
 彼だけじゃなく、彼の目指した世界だけでなく、世間には人の数だけすっごく抽象的な世界が在ります。コクセターはとっくに亡くなっていますが、彼の世界は消えてもその地平線をおがむことが出来るザイルは、山頂付近に繋がったままです。
 この目隠しナイフワークで観える世界が、システマをやる方々皆に同じに感じられているかというと、甚だ怪しい物が在りますが、お互いザイルパートナー同士、多分山の上からの絶景をおがめたことでしょう。
 抽象的な世界、言葉に未だならない、なりそうにない世界への挑戦は世界中の各分野で未だ続いています。然して僕はこのことを信じています。いずれ一般大衆にその時代の話し言葉で記述がなされ、歴史によって民主的に普遍化していくだろうと。

 議論っぽい?ぁー、ハイハイ、幼稚園の頃から理屈っぽいって言われなれてます!
(゚Д゚ )アナロジーデリカイシテ。メタファーモシニシーモイトシテツカッテナイカラムズカシクナイヨ。

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